命の水 ~ 鳴尾(なるお)の 義民(ぎみん)

西宮の昔話ー命の水 鳴尾の義民1

 豊臣秀吉とよとみ ひでよしが、天下を おさめていた400年以上いじょう前の お話です。
 鳴尾村なるおむら甲子園こうしえんから 鳴尾なるおあたり)の 農民のうみんは、毎年、夏に なると、水が たりなくなって こまっていました。
 それは、すぐ よこを ながれている武庫川むこがわが たいへんな あばれ川で、水を ひくことが できなかったからです。

西宮の昔話ー命の水 鳴尾の義民2

 ある年、日でりが つづいて 水が なくなり、田も われが 入り、このままでは、は ぜんめつして しまいそうでした。しかし、となりの 瓦林村かわらばやしむらの 田は 青々あおあおと しています。こまりぬいた 鳴尾村なるおむらの 人々は、ついに、瓦林村かわらばやしむら用水路ようすいろから 水を とることにしました。

西宮の昔話ー命の水 鳴尾の義民3

 、やみに まぎれて、鳴尾村なるおむらの 人々は 瓦林村かわらばやしむら用水路ようすいろから 水を 引き、二つの村の 間を 流れる 枝川えだがわに そこを ぬいた「たる」を25こ つなぎ、トンネルをつくり 水を 鳴尾村なるおむらに ひきこみました。

西宮の昔話ー命の水 鳴尾の義民4

 さて、おこったのは 瓦林村かわらばやしむらの 人々です。だいじな 水を ぬすんだということで、鳴尾村なるおむらが つくった 用水路ようすいろを こわそうと おしかけてきました。

西宮の昔話ー命の水 鳴尾の義民5

 鳴尾村なるおむらも こわされては たいへんと、みんなで おし出しました。そして、おおぜいの 人が 出る 大げんかに なったのです。
 このことは すぐに 豊臣秀吉とよとみ ひでよしの 耳に 入りました。大きな そうどうを おこしたつみは まぬがれません。両方の 村の 人が よばれ、さいばんが はじまりました。

西宮の昔話ー命の水 鳴尾の義民6

 秀吉ひでよしは、鳴尾村なるおむらは たしかに 水を ぬすんだが、そのくるしみは よく わかるので、このように たずねました。
 「お前たちは いのちが ほしいか、水が ほしいか。」と
鳴尾村なるおむらの人は すぐ 答えました。
 「水が ほしゅうございます。」
秀吉ひでよしは、この答えに 感心かんしんし、鳴尾村なるおむらに 水を あたえることにしました。

西宮の昔話ー命の水 鳴尾の義民7

 しかし、つみは つみです。たると 同じ数だけ、25人が しけいに なりました。その中には、父親の 身代わりになって しんでいった 14さいくらいの 子どもも いたそうです。
 その後は、鳴尾村なるおむらが 毎年 秋に、お米や お酒を おれいとして とどけることで、水を使えるように なりました。

西宮の昔話ー命の水 鳴尾の義民8

 今でも 毎年 鳴尾なるおの人々は、甲子園こうしえん浄願寺じょうがんじで 25人の 人たちの れいを おまつりしています。ぎみんひが 北郷公園ほくごうこうえんと、甲子園こうしえん八ツ松公園やつまつ こうえんあります。
 この時代の 農民のうみんにとって、水は 生きるか しぬかの 大問題だいもんだいだったのです。

引用:わたしたちの西宮 郷土資料集「西宮のむかしむかし」『いのちより水がほしい』