2020限定版エコチャレンジブック@
いのち みず なるお   ぎみん 
命の水 鳴尾の義民
 
   
 豊臣秀吉(とよとみひでよし)が、天下(てんか)をおさめていた400年いじょう前のお話です。
 鳴尾村(なるおむら)甲子園(こうしえん)から鳴尾あたり)の のうみんは、毎年(まいとし)、夏になると、水がたりなくなってこまっていました。
 それは、すぐよこをながれている武庫川(むこがわ)がたいへんなあばれ川で、水をひくことができなかったからです。
     
   
 ある年、()でりがつづいて水がなくなり、田も()われが入り、このままでは、(こめ)はぜんめつしてしまいそうでした。しかし、となりの瓦林村(かわらばやしむら)の田は青々(あおあお)としています。こまりぬいた鳴尾村の人々は、ついに、瓦林村の用水路(ようすいろ)から水をとることにしました。
       
   
 (よる)、やみにまぎれて、鳴尾村の人々は瓦林村の用水路から水を引き、二つの村の間を流れる枝川(えだがわ)にそこをぬいた「たる」を25こつなぎ、トンネルをつくり水を鳴尾村にひきこみました。
       
     
 さて、おこったのは瓦林村の人々です。だいじな水をぬすんだということで、鳴尾村がつくった用水路をこわそうとおしかけてきました。
       
   
 鳴尾村もこわされてはたいへんと、みんなでおし出しました。そして、おおぜいの人がでる大げんかになったのです。

このことはすぐに豊臣秀吉の耳に入りました。大きなそうどうをおこしたつみはまぬがれません。りょう方の村の人がよばれ、さいばんがはじまりました。
       
   
 秀吉は、鳴尾村はたしかに水をぬすんだが、そのくるしみはよくわかるので、このようにたずねました。
 「お前たちはいのちがほしいか、水がほしいか。」と
鳴尾村の人はすぐ答えました。
 「水がほしゅうございます。」
秀吉は、この答えにかんしんし、鳴尾村に水をあたえることにしました。
       
   
 しかし、つみはつみです。たると(おな)(かず)だけ、25人がしけいになりました。その中には、父親(ちちおや)のみがわりになって、しんでいった14さいくらいの子どももいたそうです。

その後は、鳴尾村が毎年、秋にお米やおさけをおれいとしてとどけることで、水をつかえるようになりました。
       
   
 今でも毎年、鳴尾の人々は甲子園の浄願寺(じょうがんじ)で25人の人たちのれいをおまつりしています。ぎみんひが北郷公園(ほくごうこうえん)と、甲子園の八ツ松公園(やつまつこうえん)にあります。

このじだいののうみんにとって、水は生きるかしぬかのだいもんだいだったのです。
   北郷公園のぎみんひ    
      引用:わたしたちの西宮 郷土資料集「西宮のむかしむかし」『いのちより水がほしい』
 
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