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豊臣秀吉が、天下をおさめていた400年いじょう前のお話です。
鳴尾村(甲子園から鳴尾あたり)の のうみんは、毎年、夏になると、水がたりなくなってこまっていました。
それは、すぐよこをながれている武庫川がたいへんなあばれ川で、水をひくことができなかったからです。 |
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ある年、日でりがつづいて水がなくなり、田も地われが入り、このままでは、米はぜんめつしてしまいそうでした。しかし、となりの瓦林村の田は青々としています。こまりぬいた鳴尾村の人々は、ついに、瓦林村の用水路から水をとることにしました。 |
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夜、やみにまぎれて、鳴尾村の人々は瓦林村の用水路から水を引き、二つの村の間を流れる枝川にそこをぬいた「たる」を25こつなぎ、トンネルをつくり水を鳴尾村にひきこみました。 |
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さて、おこったのは瓦林村の人々です。だいじな水をぬすんだということで、鳴尾村がつくった用水路をこわそうとおしかけてきました。 |
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鳴尾村もこわされてはたいへんと、みんなでおし出しました。そして、おおぜいの人がでる大げんかになったのです。
このことはすぐに豊臣秀吉の耳に入りました。大きなそうどうをおこしたつみはまぬがれません。りょう方の村の人がよばれ、さいばんがはじまりました。 |
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秀吉は、鳴尾村はたしかに水をぬすんだが、そのくるしみはよくわかるので、このようにたずねました。
「お前たちはいのちがほしいか、水がほしいか。」と
鳴尾村の人はすぐ答えました。
「水がほしゅうございます。」
秀吉は、この答えにかんしんし、鳴尾村に水をあたえることにしました。 |
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しかし、つみはつみです。たると同じ数だけ、25人がしけいになりました。その中には、父親のみがわりになって、しんでいった14さいくらいの子どももいたそうです。
その後は、鳴尾村が毎年、秋にお米やおさけをおれいとしてとどけることで、水をつかえるようになりました。 |
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今でも毎年、鳴尾の人々は甲子園の浄願寺で25人の人たちのれいをおまつりしています。ぎみんひが北郷公園と、甲子園の八ツ松公園にあります。
このじだいののうみんにとって、水は生きるかしぬかのだいもんだいだったのです。 |
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北郷公園のぎみんひ |
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引用:わたしたちの西宮 郷土資料集「西宮のむかしむかし」『いのちより水がほしい』 |